今回のグローバルキャリア講座は、映像プロデューサー・ディレクターのマサ・ヨシカワさんに講師を務めていただきました。
「“ドキュメンタリー”ということばに対する硬いイメージをなくしたい」と赤いバイキングの帽子をかぶって登場されたマサさん。語りかけるような優しい口調とあいまって会場の空気は柔らかに和みます。
講義では、マサさんが制作・撮影を手掛けたドキュメンタリー映画『ミリキタ二の猫』を中心に、ご自身の経歴や海外と日本での仕事のことをお話しいただきました。
東京で生まれ育ち、大学に入っても将来やりたいことがなかったというマサさん。映画の仕事に興味を持ちはじめたのは、大学生活も後半になってからでした。
大学を卒業すると、当時映画を学ぶのに最適な環境だったアメリカの大学に入学し直して、映画制作の技術を身につけていきます。
「興味を持ったものがあったら、とりあえずやってみる」と語りだすマサさん。映画の世界に飛び込み、歩んできた道のりを振り返るようなことばは、静かに、けれど強い確信を湛えていました。
学校の課程を終えてからは、自分自身の興味を広げながらニューヨークと日本を拠点に活動し、メジャーリーグの中継、映画字幕の作成、映画俳優へのインタビュー、大物女優が出演する映画の制作など、さまざまな立場で映像の仕事に携わってこられました。
「メジャーリーグの中継は見たことありますか?実は簡単な中継とそれなりに手の込んだ中継があるんですよ」「新人だった頃の有名女優が来日して撮影した映画に関わったときは、彼女がほしがったブランドのシリアルを、スタッフみんなであちこちに電話して探しました」。
生徒たちにとっても興味深いエンターテイメント業界の裏話を交えた仕事の話は、刺激的でおもしろく、「おおー」「へぇー」と感嘆の声が上がっていました。
そんなマサさんが、ドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫』に関わるようになったのは、ある偶然の出会いがきっかけでした。
「日本語わかりますか?手伝ってほしいことがあります」。ある日、ニューヨークのとあるビルのエレベーターで声をかけてきた見知らぬアメリカ人女性が、『ミリキタニの猫』の監督リンダ・ハッテンドーフさんでした。
マサさんは、自分の中に湧いてきた”興味”とともに手伝ううち、プロデューサーとしてこの作品に向き合っていくようになります。
『ミリキタニの猫』は、ニューヨークの路上で暮らす80歳の日系アメリカ人の画家ジミー・ミリキタニさんを追ったドキュメタリー映画です。2001年の同時多発テロ事件をきっかけにはじまった、ミリキタニさんと監督のリンダさんとの共同生活をとおして、彼の過去が明らかになっていきます。
ミリキタニさんは、第2次世界大戦中のアメリカで強制収容所に入れられ、仕事も社会的地位も奪われた日系人のひとり。
画家を目指して渡米したものの、アメリカ政府に人生を狂わされ、大きな怒りを抱えて周囲の助けを拒絶して生きてきたミリキタニさんが、周りの人の支えによって少しずつ心を開き、助けを受け入れていく様子が描かれています。
「彼の心の傷が癒されたのは、長年怒りを抱いていたアメリカだったのに、そのアメリカの人の優しさに触れたことが大きいのだと思います」とマサさんは言います。
「周りの人の助けによって心が解放された彼は、表情や姿勢が変わり、描く絵も変化していきました」と続くエピソードからは、「人間の心の傷を癒すのも人間である」「人とのつながり、縁が人生を豊かにする」というメッセージが伝わってきました。
公開から10年が経った現在も新作の短編とともに全国で上映され、多くの人の心を動かし続けているこの作品には、映画に関わる人々の温かな想いが枯れることなく流れ続けています。
「映画制作に関心があるんですが、この映画にはどのくらいの費用がかかりましたか?」「映画を制作する上で大変だったことはなんですか?」。講演後、生徒たちからさまざまな質問が上がります。『ミリキタニの猫』、続編の『ミリキタニの記憶』上映会のチラシを手に取りじっくりと目をとおす生徒の姿もありました。
自分の興味を出発点にして、人や縁をつなぎながら、日本と海外で仕事を広げていくマサさんのスタイルにおおいに刺激を受けた生徒たち。
自分の“興味”をキャッチして、次のアクションにつなげるためのアンテナを大きく広げました。